哲学の原理(一)大凡の真理

By | 2016年6月27日

そこに”すべて”がある。

この”すべて”にはリテラルに全てのものが含まれる。そこに含まれないものは何も無い。もし何かあればそれを含めたものが”すべて”となる。この”すべて”は”何か”から出来ていて、その最小のものはそれ以上分割することができず、その最大のものは他のものすべてを含むもの、即ち”すべて”それ自体である。宇宙とは空間と時間を合わせた人間の尺度であるが、その広がりとそこにおける変化を把握するそれは、人間の生きるこの世界とそこにおける様々な事象を”一つとして動くもの”、即ち”一なる全”として認識する事を可能にしていた。この言葉は全体性を把握、あるいは表現するのに適した観念であるが、リテラルな”すべて”は、より単純にすべてを含むものだ。

参考)哲子の部屋「存在するものとしないもの」07.06.2016

観察する者とされるもの

この”何か”の総体であるところの”すべて”が観察の客体であり、自身もその内に含まれる人間はその主体である。もし、観察する主体が存在せず、また観察される客体も存在しないとするならば如何なる議論も無用となる。存在しない者が存在しない物を語ることはできないからだ(※1)。よって、知覚の確かさだとかとその対象についての理解、とりわけ”形なきもの”についての理解の可能性といった事が実際的な問題となる。

(※1)厳密な懐疑主義は行動不能に陥る。無知の知に引き続く哲学の流れにおいて、それは誤解に基づくものであったにせよ、早晩誰かが言い出す話ではあった。自分は何も知らない→確かなものなど何もない→だからどうしていいのか分らない、という流れに陥る心性だが、後にはこれに、確かなものは確かなものだけ→それに従えばどうしてよいか分かる→すがるものが出来た、という流れが加わる。

理解の可能性

観察者は”すべて”が何であるかを理解することはできても、”すべて”を構成する”何か”のひとつひとつのすべてを知る事は出来ていない。観察者はこれまで”何か”を見つけると、他と区別して”それ”に名を付けてきた。しかし、その表現された言葉は”それ”と認識上は一致しても、”それ”と同一物である訳ではない。”それ”は”何か”であってその名そのものではなく、またその名は一物一個とも限らない。これらの事から、認識のズレ、その名と中身の不一致はいつでも起こりうる。つまり、違うものをそれと思い込んでしまう訳だ。

何の事であったのか、それは何かについての表現であったはずだが元のそれ(とは元来のそれであるが、原初的理解という意味ではなく、真のそれ)が失われると何が何だか分らなくなってしまう。眼前の具体的個物を指してする議論は比較的容易であるが、相手に見えないものについてする議論は難しい。それは肉眼や肌で触れうるものではなく、精神の作用によって把握されうるものだからであり、それは見えている者にとって明らかだが、見えていない者にとってはただのゴーストに他ならない。だが、本来そこに無いものが見えていたり、違うものを見ていたりはしないだろうか?

認識の正しさ

観察する主体とは別個の独立した客体。それ自体をありのままに見ることを客観と云い、ありのままのそれを見ることを直観と云う。見ると感じるとでは作用の方向、つまりベクトルの向きが逆になる。どう感じるかは主体側の問題であって客体には関係がない。観察の結果が、認識と同じ内容が、客体の中に確認できる時それは正しく、できなければそれは何とも言えず、反する場合はそれは誤りであるとされる。基準は常に客体の側にある。客体に根ざした認識を(事)実と云い、そうでないものを虚(構)と云う。前者に基づく論理はいつも現実的であるが、後者のそれにいくら論理を積み重ねてみたところで、それはただの空想にしか過ぎない。

参考)哲子の部屋「直観について」07.12.2016

完全な真理
正しいは正しい。つまり、正しい=正しいは正しい。完全な真は誤りを含まない(正=正)が、それは”すべて”において正しく、そして完璧に正しいことを意味する。これが人間に可能だろうか?間違いなく可能なのは”正にそのもの”であり、その”正しい理解”であり”答えそのもの”であるだろう。故に人間にとって可能なのは”大凡の正しさ”までという事になる。

この大凡の真理とは、何が正しいかなど人間には分らないのだから何だってありだ、というものでは決してない。それはこれ以上どうしろと言うのだ?という凡そ考えられうる限りを尽くした結果の認識能力の限界であり、それで違うなら、少なくともその時点では、もう人間にはどうする事もできないだろうというものである。

知るという事

何かを知ろうとする者にとって必要なのは、どうすればそれを知ることができるか?という知るための方法であるが、それが何であるか分らず違えていたりすれば、それについて知ることはできず、壮大な虚構だけが遺ってしまう。故にそれについての思い込みから離れてまずそれが何であるか(これがイデアと呼ばれたもの)を知る事が必要になる。この一度リセットする作業を無知の知と云い、知ろうとする営みである哲学はそこから始まった。

 

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