雑記(8/3)

By | 2016年8月3日

夏バテと疲労で若干ぐったり気味の日々。

さておき、前回投稿分の″そこに在るもの″は別の処で使用した二枚のうちの一枚。以前に同様の事を言及した際にはあまり伝わらなかったが、今回は特に問題もなく飲み込めた模様。同じ部屋で現物を見せながら、注意事項を交えながら一つ一つ進めていったので、当然といえば当然である。内容的には、対象とそれについての理解の話なので、本来的には特に説明の要るものではないが、

以前には確か、とある精神作用が書物を通じて繰り返し再生される事が、不朽の魂とか永遠不滅と表現されている、という認識そのものを客体化して捉える話の箇所で、対象と理解のどちらが本質でより重要であるかについて理解できているか確認するために言及しただけであったので、前回うまく伝わらなかったのも無理もないのかも知れない。しかしながら今回は「対象が先、議論が次。」的なことを呟いたのが聞こえたので多分、大丈夫なはず。

対象についての認識論は、パースペクティブの話で物の見方の事。それは終局にあるものではなく、始まる前にあるもの。現実の世界を見る前段階の準備作業に他ならない。これを終局においてしまうのがいるけれど、物の見方を知らない人の見る世界像はいつも観念的で中身がない。現実の世界と何ら対応関係を持たない虚構で世界像を組み上げるから、何だってできてしまう。中身が空っぽだからこそあり得る世界像、それが前々回の空想的真理。— et quod fere libenter homines id quod volunt credunt (『Commentarii de Bello Gallico』3-18).

もう一枚の方は、話していて一部に、書いてある事と書いてある事についての理解に、齟齬が見られたのでもう少し工夫が必要。俺が言おうが言うまいが関係なくそこに在るものなのだから、俺の言葉(についての理解)に惑わされず、そして自身の理解に惑わされず、そのものを見てほしいのだが、それはなかなか難しい様だ。

※読み手によっては壊れた相対主義に陥りそうな箇所があったので一部修正。

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