Author Archives: Lightwave

分別と思慮

TLで流れてきたフラグメントをメモ。

注目すべきは、ミュソンは七賢から選漏れする事がある程度という事ではなく、プラトンには彼を選ぶ理由があり、アポロンはソクラテスの他にも汝は最も思慮深き者と言っていたようだという事だ。

オイテーの地ケーンに住むミュソンなる者、汝よりはるかに賢き分別をそなえたる人なり。(同106)
この人を神アポロンは、すべての人間たちのなかで最も思慮深き者と仰せられたのであるが。(同107)
プラトンもまた『プロタゴラス』の中で彼に言及して、ペリアンドロスの代わりに彼を七賢人の一人にいれている(同108)

・・・事実を看破した人々は・・・という事を知っているからであります。これらの人々のなかにはミレトスの人タレスがあり・・・ケナイの人ミュソンがあり・・・云々。注によれば七賢の名すべてを挙げたものとしてはこのリストが最古のものだろうと云う。『プロタゴラス』343A、及び岩波版『プラトン全集8』同注。

Myson used to say we should not investigate facts by the light of arguments, but arguments by the light of facts; for the facts were not put together to fit the arguments, but the arguments to fit the facts. (※quoted form here.)

私が同様の事を言うのは、ミュソンがそのように言うからではなく、事実がそれを指し示すからである。

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ギリシア哲学者列伝 上 (岩波文庫 青 663-1) 第九章 ミュソン 99-101頁

原語版:http://www.greek-language.gr/digitalResources/ancient_greek/library/browse.html?text_id=52&page=22

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七月、閑忙。

ビルオーナー会議

日程的に折り合いつかず欠席。基本的に顔合わせ、顔つなぎの会合だし、地域の商店街の皆さんと足並み揃えて行きましょうというもの。協力できる分にはするけれど、お宅のテナントが~とか、この分の負担を~となると面倒なので、無理して行こうという気にはあんまりならない。適度な距離感がお互い大事。でもまぁ、十月には顔を出すかな。

関連会社の社会保険業務

役所からこっちに回ってきて、なんで俺が?に。勿論、然るべき奴に自分でやらせろと突っ返す。手が空いていようと時間があろうと、俺の時間は俺の時間。自分の事は自分でやるのが基本だし、後々、こっちに回ってきて大変になるからと片付けてやったりしてると、クセになって常態化するからやっぱり良くない。皆、変に合理的精神を発揮するのも程々にしないと後で馬鹿を見る。

鋭意取り組み中の資格試験

今日聞いたら、合格率は15%もあるらしい。これはますます落ちる訳にいかない。思っていたより受かる人多いからと言って、自分がそこに含まれる保証は全然なし。世の中全部、自己責任と自助努力。協力関係云々はそれができてからの話だからねぇ。頑張らねば。にしても民法との相性がいいのが救い。常識があれば特に難しくもない問題ばかり。

そして、、、、

今月は遂に手術。

忙しいからと放置して、肉団子のように肥大化した十年ものの腫瘍を遂にとってもらった。下に記念撮影した現物の写真置いてあるのでグロ注意。手術の夜に唇腫れて意識朦朧としてたが、やはり気のせいでも気の緩みでもなく薬のせいらしい。今日、経過を見てもらいに行ったら、危ないのですぐ服用止めて下さいとの事。気候のせいとか弛んでるからだとか言ってくれた皆さんの俄診断というのは本当に素晴らしいですね()。

 

 

 

 

 

 

 

↓↓↓<グロ注意>↓↓↓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ネットで見つけた症例紹介
※さらにグロ注意 → ttp://nagase-keiseikai.com/newpage23.html ← さらにグロ注意※
 

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↑↑↑<グロ注意>↑↑↑

 

 

My days の方はランキングに乗らないように設定してるのに何故載ってしまうんだろう??

解決、非表示だけじゃ駄目らしい。→ 解決してないよw

 

 

哲学の原理(一)基本概念図

我ながら酷い絵だが、これが哲学の原理(一)のベースとなっている概念図。

perspective

(二)はこの図を展開したものがベースになる。(一)図でも充分に客観その他諸々、それらが何か分ると思うが、(二)図の方がさらに理解しやすいはず。でも、(二)はまだもうしばらく先の予定。

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その又更にベースとなる、対象と理解の一致というトートロジー。これは、それが何であるかその真実に、それについての認識だとか理解といったものが一致している時、それは正しい、という事。何かについて考えて得た結論、それはどうであれば正しい(勿論、完真の事)のか?という問いへの答えがこれであった。

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先に(二)の概念図だけ上げておこう。これは一番最初の図にある”すべて”の向きを変えたものだ。そしてこの図を見ている者が同じく最初の図の”精神”自体となる。これを見る魂の持つ理解と認識については私は何も知らないが、すべての物事は、理解と認識の内にでも書物の中ででもなく、我々が生きるこの世界の上で起きている。

ところで、図の奥の角の線が見えるだろうか?書かれていない線が見えるならそれは理解によるものだ。認識もせず、理解もできなければそれは決して見えない。そうした者にとっては、無いものが見えるのはただの錯覚であり、やはり思い込みにしか過ぎず、そのような理解に基づく話は有態に言えば幻想であり、オブラートに包んで言うと形而上的という事になるのだろう。

この図が分らないというのは流石に手間がかかり過ぎる。(一)で認識についての話は済ませたので、必要があれば後は哲子の補足に任せ(二)の対象の方へと話を進めるが、それは自分達の生きるこの世界についての話であり、そこでの認識や理解が我々はこの世界でいかにして生きていくのかという実際問題へと還元されていく。

 

雑記(7/14)

空き時間を利用して資格を取得しようと勉強中。先日の模試では、当落線上ギリギリだったのでもっと頑張らないと残念な結果になりかねない。合格率は10%らしいので資格試験としては緩めの方・・・流石に落ちたくないヨ。

ほんの少し前まで全然知らんかった事ばかりだから、覚えては忘れ∞覚えては忘れの繰り返しでも前よりはマシ。もともと覚えるのは苦手だから、とにかく理解してしまうしかないが、馴染みがないからすぐ忘れてしまう(涙)

と、試験勉強はさておいて

今月は久しぶりに何冊か本を読んでいる。全部、日本語のだけど。

『保守主義とは何か』 宇野重規 中公新書2378(2016)

その二項立てからはいい加減離れて欲しいな、というのが感想。進歩主義はリベラルの訳語のつもりだろうか?
西洋国家体系に直面して国家建設を成し遂げ、敗戦と再建とともにドラスティックに国体を改めたように、状況に応じて姿勢を革めるのは保守に矛盾するものでは全くない。

何を保守するのか、何が我々なのか?”柱守って家守らず”なんて事にならんようにと願うばかりだ。

『妖怪学の祖 井上圓了』 菊池章太 角川選書518(2013)

井上については、人々を迷信から解き放ってその正体を見せようとした、という事しか知らず、その一点のみを以って哲学を分ってると評価していた。それ以上の関心は特になかったのだが、ツィートで流れてきたのを機に彼について書かれた本を一冊読んでみた。コメントはその内にでも。

『英米哲学史講義』 一ノ瀬正樹 ちくま学芸文庫(2016)

著者の訳語やイメージではなく、中身でそれが何であるか判断して欲しいというのは尤もな話。そもそそれが哲学の営みなのだし、経験論についての語源的理解も、それが知ろうとする努力という意味であるならその通りと言う他ない。

ただ、哲学上の営みとして位置づけて見ていくのと、個々の思想を見ていくのは必ずしも一致しないから、その辺りで引っ掛るひとは引っ掛るかもしれない。とは言え、核心は論者たちが見ていた対象の方であって、個々の論者の論ではないからここで引っ掛っている様だと、哲学するのは無理だろうから個別の思想研究にでも進んだらいいと思う。

他にも何冊か読んでるけど、それらについてはまたの機会に。

哲学の原理(ニ)は何処で区切るか思案中で、まだ冒頭のメモ書きだけ。

 

六月、間期。

今月は裏方作業ばかりで、表立ってする事が全くない。

おかげでかなり時間を持て余し気味。

勿論、有効に活用しているが、それでもつまんないもの書いたり、ゲームオブスローンズを夢中で見てたり、あちこちカフェめぐりをしたりとお気楽三昧になっている。

やることはしているし、陽が西から上り東に沈まぬ限りできることはないのだから、しばらくはこれが続きそう。

※Until the sun rises in the west and sets in the east. 無理なものは無理という表現で、単なる言い回し。

たぶん、八月いっぱいまではこの調子。

この機会に小田原の博物館に行きたいのだけど、宿泊プランを考えると結構なお値段になってしまってそれなら海外行った方がよくね?っていうジレンマに。でもリタイアしてる訳でもなし、暇はあってもスケジュール的に一泊二日までしかとれないし・・・と、うだうだしてる間に日々だけが過ぎている。

雑記(6/29)

少しまとまったものを一つ書いた(→哲学の原理(一)大凡の真理)ので、重複するメモ書き類を削除した。

本来はこういうの全部図だからね、書くのって結構面倒くさい。何とかA4で一枚二枚に収まるようにしたけれど、ちゃんと書けてるだろうか。まぁ例によって、気になったらまたちょくちょく修正追加するつもりではある。

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さて、ここでの書き物は勿論、論文ではない事に加えていくつかの重要な理由から文献類は基本的に載せない事にしている。

一つには、書名や著者を出すことによって、それらの対象としていたものではなく、本の話になってしまうからだ。
これは対象から遠ざかり、誤解や虚構といった創作を産み出す第一歩になる。

直線的に、或いは反対方向へと盛大に逸脱してゆく時、当初の目的地へと向かうのは想像を超えて難しい。経験から言えばそれは必ず徒労に終わる。

もう一つには、ガイドブックによる解説だとか、それらの元になっている様々な思想家達の視点からの批判や理解だとか、そうしたフィルターが反って目を曇らせ対象を見えなくしてしまう。これもまた誤解や虚構の基になる。

知りたいのは本の中身や著者の考えではなく、対象そのものだ。対象と観察者の直接的関係、そのために余計なものはやはり省きたい。

創作は生活に彩りを与え、社会を、文化を豊かにしてくれる。それを思えば、それはそれでありなのだが、知ろうとする事とそれ以外の楽しみとはやはり区別されて然るべきだろう。

そしてもっとも重要な事だが、真実やイデアは誰のものでもない。これが普遍性ということだが、哲学とは世界を書物に見立てて読み解く営み(この意味でその書かれた言葉をロゴス、それを読む力をヌースと云う)であり、書物や思想家はその注釈、付箋に過ぎない。読むべき本体はそれらではなく世界そのものであるはずだ。

対象から離れたくはない、本論から逸れたくはない、そして余計な事に拘わりたくはない。これらは同じことだが、そうした理由から、必要がない限り文献類には基本的には触れない事にしている。

 

哲学の原理(一)大凡の真理

そこに”すべて”がある。

この”すべて”にはリテラルに全てのものが含まれる。そこに含まれないものは何も無い。もし何かあればそれを含めたものが”すべて”となる。この”すべて”は”何か”から出来ていて、その最小のものはそれ以上分割することができず、その最大のものは他のものすべてを含むもの、即ち”すべて”それ自体である。宇宙とは空間と時間を合わせた人間の尺度であるが、その広がりとそこにおける変化を把握するそれは、人間の生きるこの世界とそこにおける様々な事象を”一つとして動くもの”、即ち”一なる全”として認識する事を可能にしていた。この言葉は全体性を把握、あるいは表現するのに適した観念であるが、リテラルな”すべて”は、より単純にすべてを含むものだ。

参考)哲子の部屋「存在するものとしないもの」07.06.2016

観察する者とされるもの

この”何か”の総体であるところの”すべて”が観察の客体であり、自身もその内に含まれる人間はその主体である。もし、観察する主体が存在せず、また観察される客体も存在しないとするならば如何なる議論も無用となる。存在しない者が存在しない物を語ることはできないからだ(※1)。よって、知覚の確かさだとかとその対象についての理解、とりわけ”形なきもの”についての理解の可能性といった事が実際的な問題となる。

(※1)厳密な懐疑主義は行動不能に陥る。無知の知に引き続く哲学の流れにおいて、それは誤解に基づくものであったにせよ、早晩誰かが言い出す話ではあった。自分は何も知らない→確かなものなど何もない→だからどうしていいのか分らない、という流れに陥る心性だが、後にはこれに、確かなものは確かなものだけ→それに従えばどうしてよいか分かる→すがるものが出来た、という流れが加わる。

理解の可能性

観察者は”すべて”が何であるかを理解することはできても、”すべて”を構成する”何か”のひとつひとつのすべてを知る事は出来ていない。観察者はこれまで”何か”を見つけると、他と区別して”それ”に名を付けてきた。しかし、その表現された言葉は”それ”と認識上は一致しても、”それ”と同一物である訳ではない。”それ”は”何か”であってその名そのものではなく、またその名は一物一個とも限らない。これらの事から、認識のズレ、その名と中身の不一致はいつでも起こりうる。つまり、違うものをそれと思い込んでしまう訳だ。

何の事であったのか、それは何かについての表現であったはずだが元のそれ(とは元来のそれであるが、原初的理解という意味ではなく、真のそれ)が失われると何が何だか分らなくなってしまう。眼前の具体的個物を指してする議論は比較的容易であるが、相手に見えないものについてする議論は難しい。それは肉眼や肌で触れうるものではなく、精神の作用によって把握されうるものだからであり、それは見えている者にとって明らかだが、見えていない者にとってはただのゴーストに他ならない。だが、本来そこに無いものが見えていたり、違うものを見ていたりはしないだろうか?

認識の正しさ

観察する主体とは別個の独立した客体。それ自体をありのままに見ることを客観と云い、ありのままのそれを見ることを直観と云う。見ると感じるとでは作用の方向、つまりベクトルの向きが逆になる。どう感じるかは主体側の問題であって客体には関係がない。観察の結果が、認識と同じ内容が、客体の中に確認できる時それは正しく、できなければそれは何とも言えず、反する場合はそれは誤りであるとされる。基準は常に客体の側にある。客体に根ざした認識を(事)実と云い、そうでないものを虚(構)と云う。前者に基づく論理はいつも現実的であるが、後者のそれにいくら論理を積み重ねてみたところで、それはただの空想にしか過ぎない。

参考)哲子の部屋「直観について」07.12.2016

完全な真理
正しいは正しい。つまり、正しい=正しいは正しい。完全な真は誤りを含まない(正=正)が、それは”すべて”において正しく、そして完璧に正しいことを意味する。これが人間に可能だろうか?間違いなく可能なのは”正にそのもの”であり、その”正しい理解”であり”答えそのもの”であるだろう。故に人間にとって可能なのは”大凡の正しさ”までという事になる。

この大凡の真理とは、何が正しいかなど人間には分らないのだから何だってありだ、というものでは決してない。それはこれ以上どうしろと言うのだ?という凡そ考えられうる限りを尽くした結果の認識能力の限界であり、それで違うなら、少なくともその時点では、もう人間にはどうする事もできないだろうというものである。

知るという事

何かを知ろうとする者にとって必要なのは、どうすればそれを知ることができるか?という知るための方法であるが、それが何であるか分らず違えていたりすれば、それについて知ることはできず、壮大な虚構だけが遺ってしまう。故にそれについての思い込みから離れてまずそれが何であるか(これがイデアと呼ばれたもの)を知る事が必要になる。この一度リセットする作業を無知の知と云い、知ろうとする営みである哲学はそこから始まった。

 

※You are not allowed to use this article without my permission.©2016 lightwaves

試斬

二回ほど、試斬に行ってきた。

巻き藁ぶった切りの試し斬り。

実際に突いたり、叩いたりできる剣道と異なって、こちらは唯ひたすらに真剣を振るうという所作を繰り返す。わずかなミスが大惨事を招きかねず、気の緩みは許されないという緊張感を保ったまま勤しめるのはやはり両者の際立った違いかと思う。

力みすぎず、緩みすぎず、切るのは刀に任せて逆らわない。自分の技量を磨くとかは後でいい。まずは刀を身体で知り、切ることに慣れる。それができてから、刀を邪魔をしない或いはより活かす身体の使い方という具合になるんだろう。動作の話だから、こればかりは体得するほかない。

それにしても、自分というものを改めて知るいい機会になった。

次があるかは分らないが、もし機会があれば次は目測を少しばかり工夫してみたい。

五月、財務。

今年度の資金見通しについて取締役会で確認。

八月二月の税金は相変わらず結構な額を持って行かれる。会社で払って個人でも払うってのは二重取りな気がしなくもない。残債がないので資金繰りは楽だが債権処理の見通しが立っていないのが悩みどころ。前任者の開けた大穴は何事も無ければ三年ほどでなんとかなる見込み。逸失分を考えると本当にもったいない。教科書的な利回りかけただけでもいくらになるやら。

昨年末から社会保険の話が出てるが、他でも給料貰ってるヤツはそちらで処理してくださいという方向。保険料は半々と言っても、負担するのは結構きつい。皆、高給取りだし。

参考)健康保険料・厚生年金保険料(折半額)の自動計算(http://www.n-jim.jp/information/tool.html

保険料の負担、高いから報酬抑えようとか言い出すのいるからね。恐ろしいことに。

生命保険の見直しでネット見てたら、これで勝つる!問題ない!みたいなドヤ顔してるサイトがあったので顧問税理士に聞いてみたところ、それ今絶賛摘発中との事。まだそんな事言ってるのいるの?と言われる始末。

単に古い記事が残っていただけがもしれないが、ネットのドヤ顔はやはり要注意。